記事詳細

【あの名場面の裏側】G戦士編 中畑を救った“出世アーチ” スペアのコンタクトレンズがとらえたマリオ・ソトの速球 (1/3ページ)

 「カアちゃん、まだ来ないか」。巨人・中畑清はイラ立っていた。後楽園球場のロッカーを出たり、入ったり、落ち着かなかった。

 1978年10月28日、米大リーグの強豪、シンシナティ・レッズを迎えての日米野球第1戦の試合前だ。4年ぶりに来日した大リーグ、それもトム・シーバー、ジョニー・ベンチ、ピート・ローズらキラ星たちをそろえた“赤い軍団”レッズとあってスタンドは人で埋まっていた。王貞治対フォスターの日米ホームラン王同士の顔合わせなど試合前の華やかな交歓が繰り広げられているとき、中畑だけは1人慌てふためいていた。

 実は練習中にコンタクトレンズの片方を落とし、どうにも見つからないのだ。視力0・5、レンズがなければ野球をやるどころではない。仁美夫人(故人)に電話し、大至急スペアを届けるよう頼み、今か今かと待っていた。

 この日米野球は中畑にとって野球人生がかかった戦いだった。プロ入り3年目が過ぎ、依然1、2軍の往復暮らし。「3塁には高田繁がいるし、いっそのことよそのチームに出してやった方が…」とフロント内ではトレード話もささやかれた。実際、九州のクラウンライターライオンズから獲得の打診もあったという。中畑自身、プロ入りしたとき「3年頑張ってダメなら田舎に帰って…」と決意していた。

関連ニュース