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徳川慶喜はなぜ敵役になったのか 情けを知らぬ「独公」の強さと弱さ (1/3ページ)

 徳川慶喜についての一般的な認識は、「徳川15代目、最後の将軍」「大政奉還をした人」の2つではないだろうか。それを思うと、放送中のNHK大河ドラマ『青天を衝け』で草なぎ剛が好演する徳川慶喜は、幼少時から英邁と評判で決断力がある意外な姿に見えているかもしれない。ただ一方で、鳥羽伏見の戦いで敵前逃亡した「臆病者」という誹りを受け、歴史的には評価の分かれる人物だった。大政奉還という歴史の転換点をつくりながら、なぜ彼は敵役になり果てたのか、歴史学者の家近良樹氏が解説する。

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 安政5年(1858年)に幕府がアメリカをはじめ5か国と結んだ通商条約は朝廷の勅許を得られていなかった。慶応元年(1865年)10月4日、開国派の慶喜と攘夷派の公卿が出席した朝議(朝廷での評議)は懸案だったその条約勅許問題を巡って紛糾し、夜も更けた。そこで公卿たちが散会しようとすると、慶喜がこう畳みかけて凄んだ。

 「このままでは許さない。勅許を得られないなら自分は自決する。その場合、自分の家臣が何をしでかすかわからない」

 その恫喝に公卿たちは震え上がり、ついに条約勅許が得られることになった。

 続く重要課題となった兵庫開港問題でも慶応3年5月の朝議で熱弁を振るい、勅許を獲得。元服前から英邁を謳われていた上に、幕末の政治の中心・京都で政治的経験を積み、権謀術数にも長けていた彼の能力は突出していた。

NEWSポストセブン

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