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【忘れない、立ち止まらない 東日本大震災から10年】想像を絶する喪失と悲嘆抱えた人への取材 遺族となった若手記者の覚悟

 「今こそ、遺族や被災者を取り上げるべきじゃないのか」

 2012年夏、編集長の長谷川一芳が、記者たちを順に見渡しながらこう口にした。発災1年半となる9月11日付の特集号制作について話し合っていたときだ。

 それまで東海新報は、遺族や被災者個人にフォーカスした取材を避けているところがあった。記者である以前に、みな震災の当事者だ。「私なら聞かれたくない」という意気地のない気持ちが先に立ち、踏み込むことができなかったのだ。

 だが、常にジレンマはあった。「避けていていいのか? 後世に残す声を集めるべきではないのか?」と。「相手を傷つけたくない」と言い訳し、その傷に触れる怖さから逃げているだけだ-そう悶々(もんもん)としていた時期だった。

 長谷川は当時入社2年目の記者、高橋信に告げた。「まずは信君…遺族として手記を書いてくれないか」。

 ドキリとして高橋を見た。彼も驚いた顔をしていた。

 高橋は11年4月、震災直後に入社した社員である。大船渡警察署高田幹部交番の所長であった父、俊一さんは、陸前高田市民の避難誘導中、津波に巻き込まれた。

 同年3月末、高橋があいさつに来た。当時、俊一さんは見つかっていなかった。入社を辞退するのかと思ったが、彼は「ここで働きたい」と言ってくれた。憔悴(しょうすい)した様子で「よろしくお願いします」と細い体を折り曲げていたことが忘れられない。

 そんな彼には、入社直後からメディアの取材が殺到した。「本人が応じるならば」と会社はノータッチでいたが、これが大きな間違いだった。

 取材を重ねる度、高橋の顔色は悪くなっていった。見かねて声をかけると、苦しそうに打ち明けてくれた。配慮を欠いた質問や、夜中にもかかってくる電話…えげつない取材攻勢に疲弊しながら無理していたことを。

 どうして、早く気づいてやれなかったんだ! と、今も悔やんでいる。

 だから、手記は気がかりだった。ふさがらぬ傷をえぐり、人前にさらすなんて、と。

 だが、高橋は書いた。それはまさに玉稿であった。彼は決して立ち直ってはいない。それでも自分の悲しみと向き合い、周囲への感謝を糧に前へと進もうとしている。編集部内でゲラを回覧していたとき、読んだ社員の目が赤く潤んでいくのが空気で伝わってきた。

 「よく書いてくれたな…」。感謝の念とともに、そう思った。

 高橋が震災から1年半という節目にこれを書いた。ならば、私たちも覚悟を決めなくてはならない。想像を絶する喪失と悲嘆を抱えた人々の、消えることない苦しみと対峙(たいじ)し、将来に活かすべきは何かを探るのは、残された人間の義務だ-そう意識が変わった出来事だった。

 高橋は今、入社10年目の中堅どころとなった。取材させていただく方の心情を敏感に察知し、意図をくみとり、それを冷静・客観的に書こうとする誠実な記者だ。

 心に深い傷を負った方たちを取材をするにあたっての心構えに、正しい答えはない。向き合い方は一人一人異なる。

 だからこそ毎回悩み続けるし、ただ謙虚に一人ずつ向き合いたい…彼の存在が、いつもそう思い出させてくれる。

 ■鈴木英里(すずき・えり) 1979年、岩手県生まれ。立教大卒。東京の出版社勤務ののち、2007年、大船渡市・陸前高田市・住田町を販売エリアとする地域紙「東海新報」社に入社。震災時、記者として、被害の甚大だった陸前高田市を担当。現在は、同社社長。

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