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【ぴいぷる】不慮の事故で下半身不随も…奮い立ちパラリンピック3度出場 日本の車いすアスリートの先駆者・山本行文さん (2/3ページ)

 ■残り半分を2倍に

 といっても、実際には思うようにはならなかった。医師からは「下半身は戻らない」と宣告されていたのだ。それでも、リハビリに日々懸命になったが、ついに歩けるようにはならなかった。

 「これ以上は治らない」

 その心境に至るまでは1年半がかかった。しかし、その間に全身全霊でリハビリに励んだことが、車いすでの生活を決心させたのだ。

 そして、「車いすは、単に生活の手段だけではない」と魂を奮い立たされたのは、1981年に「第1回大分国際車いすマラソン大会」をテレビで見たときだった。悪化した腰の手術もあり、大分県別府市にある自衛隊唯一のリハビリ病院にいたとき、同じ境遇の人々が頑張っている姿に一念発起した。

 「これに挑戦しよう!」

 とはいえ、日本ではまだ練習法が確立されていたわけではなく、コーチは「自分自身」だった。また、病院では治療と同時に、自衛官として事務職の配置に就いていたため、トレーニングは勤務外の早朝と夕方以降しかできない。まずは午前4時半に起きて敷地内を車いすで走る。それも、古タイヤをもらってきて引っ張ったのだ。

 その光景は、初めは、けげんそうに見ていた周囲の人たちの心も動かした。やがて出勤前に河川敷で練習する外出許可が出て、同級生が車いす用の室内ランニング機を作ってくれた。

 「体の半分の機能がダメになったなら、残りの半分を2倍にしよう!」

 自身に課したトレーニングは、10キロのダンベル上げ800回、左右合わせて64キロのバーベル上げ60回、腹筋400回、10キロの砂袋を背負って腕立て伏せ100回、その後にランニング機で約2時間走るというもので、これを毎日、帰宅後に欠かさず続けた。

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