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【日本の元気 山根一眞】阪神淡路大震災から25年…最重要の備えは「救援マネジメント」 (1/2ページ)

 今週の金曜日(1月17日)は阪神淡路大震災から25年だった。当時、取材のため神戸入りして約1週間を過ごした私は多くのことを体験し、その後、今日まで巨大災害をテーマとするようになった。

 関西に向かう新幹線東京駅のホームで私は、水を詰めたポリタンクをカートで引き新幹線に乗り込む人の姿を見た。ニュースで「水が絶たれた!」としきりに伝えていたからだろう。だが現地では、トイレや風呂、台所など「生活用の水が絶たれた」ことが最大の問題だった。公園の公衆便所で見たのは、流せないままのウンコが山となったままの便器だった。東京からポリタンクで水を届けようという思いやりは尊いが、「水が絶たれた」報道はもう少し幅のあるものであってほしかった。

 神戸市東灘区の一角では、住民たちが屋外にパイプとシートで大きなテント小屋を自力で建て、倒壊家屋の木材をチェンソーで切断し薪を作り、たき火を絶やさずに夜を過ごしていた。ここは通勤サラリーマンの町で、震災まで隣近所のつきあいは皆無だった。だが、力を合わせ倒壊住宅の下から被災者を救出、夜にはそれぞれの人生を語り合い、地域の強い絆が生まれていた。

 震災発生から5日目、すでに山のような救援食料=カップ麺が届いていたのには驚いた。そこに、避難者の親戚がリュックサックに食料を詰めて20キロ近く歩いて届けてくれた。だが、カップ麺の箱の山を前にして、迎えた人も届けた人も言葉が出なかった。

 ある避難所では、新潟から夜を徹し大型建機を神戸まで運んできた人がいて、「これを活用してくれ!」と詰め寄っていた。その避難所のすぐ近くでは私鉄の高架橋が落ちるなど被害は甚大だったが、避難所の世話役たちにはその手配をどこに、どうつなげばいいか見当がつかず丁重にお断りした。その対応にトレーラーのオヤジは怒りの声をあげていたのだ。重機、建機は一台でも多く必要だが、行政機能はまひ、災害発生直後の復旧作業情報の的確なマネジメントがなされていなかったための怒りと戸惑いだった。

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