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中国共産党の拷問に耐えた“最後のサムライ” その壮絶人生 (1/3ページ)

 1945年8月15日以降も、シベリア抑留など、多くの日本人が「終戦」を迎えられなかった。だが、彼ほど最後まで戦った日本人はいない。最後の帰還兵・深谷義治氏の壮絶な人生を、息子の敏雄氏が語った。

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 日本国最後のスパイと呼ばれた父が亡くなったのは2015年春のことです。終戦後も中国に潜伏して諜報活動を続けた父と私たち家族が日本に引き揚げてきたのが1978年。それから36年。99歳で息を引き取るまで、日本のために戦い続けた人生でした。

 父の死後、私は島根県の実家を整理しました。すると戦前に父が頂いた叙勲賞状や明治天皇の肖像画などとともに、御朱印帳が保管されていました。それは、歴代天皇が眠る御陵のご朱印を集めた戦前の集印帳でした。

 遺品の数々を見て、分かった気がしました。なぜ父が最期まで日本に忠誠を尽くしたのか、と。

 1915年に島根県大田市で生まれた父は、貧しかったために中学を中退して大阪で働きはじめました。遺品のなかに当時の思い出を綴った広告チラシがありました。チラシの裏には、こう記されていました。

 〈1カ月2回の休みのほとんどは近畿地方の御陵参拝に行った。朝、3時半ころ起床し、自転車で奈良の御陵に行き、参拝。次に京都の御陵に行き、さらに大津の御陵参拝を終え、夜9時半ころに大阪に帰ったときは自転車のサドルの摩擦で出血し、小便に困った。3年間の丁稚奉公の間に神武天皇以来、122代天皇の御陵のなか118代の天皇御陵の御朱印をもらった〉

 戦後も中国に残った父は最後のサムライとも呼ばれました。サムライが持つべき主君への忠誠心をそうやって培っていったのです。

 22歳のときに応召して中国大陸の戦場に向かった父は、翌年陸軍の憲兵試験に合格しました。その後、上海出身の母と結婚し、スパイとして中国の諜報活動や、現地の貨幣市場の混乱を狙った紙幣偽造などに従事しました。

 そして8月15日。敗戦後に上官が父に発した「上海で任務を続行せよ」との命。その命令が父と私たち家族の運命を大きく変えました。

NEWSポストセブン

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