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【秘録 今明かす「あの時」】真珠湾上空で被弾、禁断の島に不時着 ニイハウ島事件 (1/2ページ)

★たった2人の戦争-ニイハウ島事件の真実(1)

 ハワイ・ニイハウ島に不時着した零戦搭乗員が島民に殺害され、彼をかばおうとした日系人が自殺したニイハウ島事件。「反米傾向がなかった日系人が日本兵に味方した」と、後に日系人収容所建設のきっかけになったとされる。事件を調査した米軍が持ち帰っていた5枚の「謎の木札」が昨年、遺族に返還された。真珠湾攻撃のアナザーストーリーを追う。

 零戦搭乗員の西開地重徳(にしかいち・しげのり)一飛曹=当時21歳=は大正9(1920)年、良太郎と房子の次男として愛媛県今治市で生まれ、旧制今治中学校(現・今治西高)に進学した。七つボタンの海軍航空兵に憧れていた西開地は在学中に「海軍甲種飛行予科練習生」に合格し、甲飛2期生として横須賀や霞ヶ浦で訓練を受け、大分航空隊に配属された。

 昭和16年11月18日正午、愛機の零戦とともに空母「飛龍」は大分佐伯湾を出港する。直後、甲板に総員集合が下令され、艦長の加来止男大佐が「今回は祖国の見納めになるかもしれないので、よく見ておくように」と訓示した。

 解散した後、ピット(待機室)で「ソ連のウラジオストクか」「アリューシャン列島のダッチハーバーじゃないか」と雑談の中、口々に攻撃目標を予測する。

 11月24日、択捉島中部ヒトカップ湾に到着した「飛龍」以下、空母全艦搭乗員に対し「旗艦赤城に集合」の命令が下る。

 「我が目的は真珠湾を攻撃するにあり」

 空母「赤城」の艦橋で真珠湾の模型を前に西開地は源田サーカスで名をはせた航空作戦参謀の源田実から詳細な説明と指示を受けた。

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