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【勝負師たちの系譜】米長邦雄永世棋聖、名人位挑戦も6度敗退 高かった中原名人の「壁」 (1/2ページ)

★米長邦雄(2)

 米長邦雄永世棋聖が容易にタイトルを取れなかったのは、米長が棋士になった頃、大山康晴15世名人が全盛期だったこと。もう一つは後輩の中原誠16世名人が急台頭し、大山の後継者のようにタイトルを奪っていったことも、大きな原因である。

 米長の初タイトルは、1973年の棋聖戦だった。相手は有吉道夫棋聖(当時)。前期、初タイトルを果たした有吉からタイトルを奪取した時、米長は30歳になっていた。

 この時すでに中原は、名人をはじめとするほとんどのタイトル奪取の経験があったから、米長は一流棋士の中では、遅咲きと言ってよいであろう。

 この翌期、私は内藤国雄九段を挑戦者に迎えた五番勝負最終局の記録係を務めた。米長の堂々とした貫禄に、眩しさを感じたものだった。

 この対局の夕食休憩時、関西で淡路仁茂三段(当時)が関西三段リーグで優勝したという一報が入り、彼は四段昇段。関東で優勝していた私も、特例の東西決戦なしで昇段した。記録の最中に棋士になっただけに、忘れられない一局となった。

 米長はこの将棋は敗れたものの、以後、タイトル戦の常連となっていく。

 特に1985年には、41歳で棋聖、十段、王将、棋王の四冠王となり、棋界の第一人者となった。

 40歳を超えると、ほとんどの棋士は下降線を辿るから、米長は年と強さのサイクルが、人と違っていたのだろう。その原因が中原という、どうしても超えられない壁があったからなのは間違いない。

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