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【明智憲三郎】日本史最大のクーデター「本能寺の変」真実求め50年、定説への挑戦 (1/3ページ)

2017.02.23

明智憲三郎
明智憲三郎【拡大】

 超高層ビルを背にスマホを片手に行き交うビジネスマン。戦国時代、現代がこれほど変貌しようとは、戦(いくさ)に明け暮れた武将らも想像だにしなかったに違いない。

 時をさかのぼること天正10(1582)年、智将・明智光秀は謀反を起こし織田信長を自害に追い込む。日本史最大のクーデター、本能寺の変だ。その光秀の子、於寉丸(おづるまる)の血を引くという。

 「曾祖父が明治14(1881)年、内務省に系図や短冊、笛などの伝承品を提出して名字を明田(あけた)から明智姓に復姓しました。『将来、子孫が明田を本姓と誤ることがあれば先祖の霊に相済まない』と考えたからだそうです」

 明智一族と伝承された家系の中で、明智姓を名乗る家系は他にないとされ、どの家も隠れ忍んできたことがうかがえる。

 「光秀の研究を始めたのは20歳ごろで、1冊の歴史書がきっかけでした。物心ついてからずっと、『上司(織田信長)にいじめられたから殺すなんて、ずいぶん浅はかな先祖だ』と信じ込んでいましたが、そこには『(怨恨説は)後世の軍記物による作り話だ』と書かれていて、大変な衝撃を受けました。同時に『それなら何が動機なのか、どうしても知りたい』という思いが募り、本能寺の変の本を読みあさったんです」

 今の歴史学界では怨恨説と野望説の両立によって、すでに動機論は決着したとされている。

 だが…。

 「もとは『惟任(これとう)退治記』(惟任は光秀がたまわった名字)です。これは羽柴秀吉が本能寺の変から4カ月後に家臣に書かせた(本能寺の変の)顛末書と言えるもので、秀吉が政権簒奪(さんだつ)のために都合よく書かせたものです」と、穏やかに話す。

 
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