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【大谷能生 ニッポンの音楽教育150年間のナゾ】「君が代」と「唱歌」と「明治頌」(5) (1/2ページ)

 あけましておめでとうございます。正月からいろいろあって今年は大変そうですね…。とはいえ身を低くしてマイペースで更新していきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。

 ボストン出身の音楽教師、ルーサー・ホワイティング・メーソンは、日本に来日する以前から、アメリカでは「初等音楽教育」に関する第一人者として随分と著名な存在だったそうです。安田寛氏は著書『唱歌と十字架』(音楽之友社)のなかで、開国したばかりの極東日本の学校教育の指導のために彼が来日したことについて、「メジャーリーグの現役四番バッターが日本でプレーしに来る」ような出来事である、という風に例えています。

 メーソンは日本で伊沢修二とともに、のちに現在まで、つまり、なんと150年!に渡って引き継がれてゆく、初めての「唱歌」の選定・制作をおこないました。明治大正昭和平成の四代にわたって、そしておそらく令和のこれからも、日本の音楽教育の基盤には彼(ら)が導入した「唱歌」が据えられている。メーソンの仕事は大成果を納めたという訳ですが、そんなメーソンは実は、「唱歌」教育の方向性が固まった段階で、かなり曖昧な形で、在日期間で数えるならば、わずか2年あまりで滞在を打ち切られ、つまり「馘首」になってアメリカへと帰国させられることになります。

 同時期に来日し、「君が代」の制作にも関わったフランツ・エッケルトの在日期間がほぼ20年に渡ることに比べると、メーソンが仕事に携わった期間は不自然なくらいに短い。しかもこの帰米は、彼自身が望んだものではなく、文部省からのほぼ一方的な通達によって行われたものだった模様です。

 一般的に考えれば、選定・制作後、それを普及させるための指導と、その定着までを確認するところまで、しっかりと仕事をお願いするのが普通だと思うのですが、メーソンの離職はあまりにも性急なもののように思える。ここには何か特別な理由があるのではないか--この疑問に立ち止まり、「メーソンが日本で行ったこと、行おうとしたこと」について、これまで知られていなかった資料の丹念な調査と発掘を通して、この謎を一編のミステリー仕立てで描いた著作が、安田寛氏の『唱歌と十字架』です。

 安田氏は、メーソンには、「キリスト教を日本に伝道する」という意志があったのではないか、と推察します。お雇い外国人という自身の立場を利用して、日本の公式の音楽教育の中に、キリスト教の「讃美歌」を「唱歌」というかたちで忍び込ませること。学校教育において、教会の讃美歌と同じメロディーを全国的に普及させることによって、宣教師たちの仕事をやりやすくさせること--。安田氏は以下のように書いています。

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