記事詳細

【大谷能生 ニッポンの音楽教育150年間のナゾ】「君が代」と「唱歌」と「明治頌」(1) (1/2ページ)

 ここで一旦、これまで書いてきた、明治政府が施行した「音楽」をめぐるトピックスを時系列的に年表にまとめておこうと思います。

1868 明治元年

1872(M5)年 学制領布。「唱歌・奏楽」のカリキュラムは予定されながらも「当分コレヲ欠ク」。

1874(M7)年 雅楽課の伶人たちが海軍軍楽隊に洋楽を習いに行く。

1875~1878(M8~10)年 伊沢修二、アメリカに留学し教育学その他を納める。

1879(M12)年 教育令公布。音楽取調掛設置。メーソン来日。

1881~1884(M14~17)年 「小学唱歌集」が順次出版される。

1882(M15)年 メーソン帰国。

1884(M17)年 伊沢修二、文部省に「音楽取調成績申報書」を提出。洋楽と邦楽の音律は「毫も異なる所なし」。

 という感じでした。

 ちなみに、1883(M16)年には鹿鳴館が開場し、1885(M18)年には伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任しています。

 内閣制度に移行するに当たって、明治政府内では、「改革」派と「復古」派、あるいは「洋学」派と「儒学」・「国学」派と言ってもいいと思いますが、それぞれ思想と立場が違う人たちによる対立が起こり、最終的に太政大臣であった三条実美を抑えるかたちで伊藤博文が総理大臣に就任します。維新から20年ほど経って、ようやっとこの辺りで明治政府の進行方向が「近代化」必須オンリーにまとめられてきた、という訳ですが、伊沢のこれからの「音楽」=ドレミで出来た「唱歌」の採用案も、この流れの中での選択だったのでした。

 のちの目から見ると必然に思える「近代化」。しかし、この時代は、社会のあらゆる部門において、まだそれは全く「必然」のものではありませんでした。伊沢が強硬に「ドレミ」教育を推し進めた背景には、実は、彼に先行して、彼とはまた別のラインから「次世代の音楽とはどのようなものであるべきなのか」、について思案をおこなっていたグループがあったのです。

 日本における近代的な洋楽需要のそのはじまりは、薩摩藩の軍楽隊です。まだ幕藩体制が続いている幕末に、薩摩藩は生麦事件から始まる「薩英戦争」を契機に、イギリス式の軍装を積極的に採用してゆくことになります。薩摩軍にブラスバンドが導入されたのは、1869(M2)年のこと。その後、廃藩置県(1871)による藩軍の解散・整備を経て、彼らはそのまま日本海軍の初代軍楽隊へと編成されることになります。